能彦の「勝手に名言選集」


  
 余は独立の人格である。故に余は独自の思想を持つ。但し独自の思想を持つとは其の結合の状態、統一の方法が独自の面目を露呈するの意味であって、其の要素が悉く独特であるという意味ではない。要素において悉く独特なるは狂者の思想である。他人と全然交渉なき怪物である。要素において共通にして結合において独自なればこそ余は友を持ち恋人を持つ。同時に余は余として人生の大道を行く。
(阿部次郎「合本三太郎の日記」ヘルメノフの言葉)より       (注)漢字は新字体使用 2009/02/23
 三太郎の日記を読み始めたのはいつのことであろうか?おそらく50年も前のことではないかと思う。その頃は、文中の難解な漢字には辟易したものの、何故かその文意の流れは素直に我が身に沁みいってきたことを覚えている。
 ここに取り上げたのは、格別当時から好きな一節というわけではない。しかし、久しぶりに「三太郎の日記」を開いたところ、この一節にも何度となく線が引かれ、熟読した痕跡が留められていた。
 その上に、「独自の思想を持つ」ことに憧憬を抱き、時に若い人に教える立場の講師となった時には「理論というものは、何か文献によって示されるのではない。理論というものは自分で作るものだ。」と諭してきた。しかも、その理論は「現実の事実に基礎づけられていなければ、理論としての市民権を持たない。」とも言い続けてきた。「要素において悉く独特なるは狂者の思想である。」というのもこのことと合致する。
 こうしたことがあって、この一節を「名言」としたが、事実は、私がこの一節に育まれてきたのではないかと思う。

 危機を目の前にすると、気骨ある人は自分を拠点にたたかう。彼は作戦命令を自分で発し、自ら指揮をとる。艱難は気骨ある人の心をとらえる。それをしっかり抱きしめることにより、自分の真の姿を自覚するからだ。
ド・ゴール(カーネギー名言集)より     2009/02/24
 ド・ゴールは言わずと知れたフランス第5共和国の大統領であるが、同時に、ヒトラーに屈服した南仏ヴィシー政権に従わずに英国から抵抗活動を続けてきた将軍でもある。
 だから、「作戦命令」、「指揮」という軍事用語が大きなウェイトを占めるが、趣意は、甘くはない人生を闘いながら生き抜いて行こうとする市民一般に通じるものである。
 「艱難は気骨ある人の心をとらえる。」とは何と美しい言葉ではないかと思う。そして艱難に向かう意義を「自分の真の姿を自覚する。」という。私も大いに共感する。若い時に「人は何のために生きるのか?」を問い、自分なりに「人は死ぬために生きる。」と結論した。単純に命を絶つために生きるものでないことは勿論である。人は美しい死を迎えるために死ぬまで努力しなければならない。」というのが真意である。これは、自分の真の姿の発見であると思う。
 ここに一致点をみて取り上げた。

 古の明徳を天下に明らかにせんと欲せし者は、まずその国を治めたり。その国を治めんと欲せし者は、まずその家を斉えたり。その家を斉えんと欲せしものはまずその身を脩めたり。その身を脩めんと欲せし者は、まずその心を正しくせり。その心を正しくせんと欲せし者は、まずその意を誠にせり。その意を誠にせんと欲せし者は、まずその知を致せり。知を致すは物を袼すに在りき。
 物正しくしてのち知至る。知至りてのち意誠なり。
意誠にしてのち心正し。心正しくしてのち身脩まる。身脩りてのち家斉う。家斉いてのち国治まる。国治まりてのち天下平らかなり。天子より以て庶人に至るまで、壱にこれ身を脩るを以て本と為す。その本乱れて末治まる者は、否らず。その厚きところの者薄くして、その薄きところの者厚きは、未だこれあらざればなり。これを本を知ると謂う、これを知の至ると謂うなり。
致知(出典:大学)谷沢永一編著「名言の智恵・人生の智恵」(PHP研究所)より     2009/02/25
 本当は「致知」の意味は知らなかった。しかし、ウルマンの「青春の詩」を世に紹介した宮沢次郎氏の「青春」の本を出版したのが「致知出版社」で、この出版社が「致知」という雑誌を出版していることから、初めてその意味を知ることとなった。
 
明徳を天下に明らかにせんと欲せし者」とは現代風にいえば政治家となるのかよくわからないが、古代中国の場合は明らかに「王者」であって覇者ではないであろう。
 私は、そういう大それた人間では勿論ないが、しかし、業界団体では公職選挙法まがいの選挙規則で役員選挙を行い、その結果団体では主要な役員となっている。そのことを自慢するのではなくて、逆にこの「致知」に照らすと、如何にも卑小な存在であることを思わずにいられない。家も整えていなければ、身を修めてもいないし、心を正しくもしていない。「致知」には到底至らないが、自戒・目標・理想として掲げることにした。

 改革の精神は必ずしも自由の精神ではない。なぜならば、改革の精神は、改革を欲しない民衆に対してそれを強制しようとするかもしれないからである。
JSミル(出典:自由論)「岩波文庫の名句365」より     2009/02/26
 残念ながら、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」をきちんと覚えているわけではない。学生時代に図書館で、岩波文庫か三省堂版の翻訳を読んだ記憶がかすかにある程度である。「そんなレベルで「名言選集」などと名付けるな、とのお叱りはあるかも知ればいが、そんな叱り方をする人がおかしい。この欄は「私が勝手に名言を選んで集成する。」と宣言しているのだから、叱りたい方は読んでくれなくて結構である。もっとも、誤りがあれば厳しくご指摘いただきたい。謙虚に対応することとしたい。
 さて、この一文を取り上げたのは、現在の「改革」、特に構造改革に関して、私は心情的に賛成、各論的に反対なのである。特に郵政改革のような改革には共感するが、私の身の回りに起こっている規制改革は如何なものかと思っている。何故なら、改革の基本は全てアメリカナイズを目的としているからである。
 グローバル・スタンダードが本当にグローバルなものならまだ考える余地もあるが、現実はアメリカンスタンダードとなっていることはすでに識者の常識である。
 ミルの一文は自由の精神を善とし、「改革の精神」がこれに適うかどうかを問うているのであるが、必ずしもそうではないと示唆しているところに、数世紀も前の賢人の透徹した賢人振りを感じる。


 年をとると人間は、過去を振り返るようになる。しかし、激動の時代にあっては、より前を見つめ、より後世のためを考え、より青年に学んでいくことです。うかうかしていると、落伍してしまう。意気を鼓舞して、前進また前進していこう!
周恩来(出典:名言サプリ)http://message.from.tv/human.php?human_id=393」より     2009/02/27
 私は格別中国崇拝でもないし、共産主義礼賛者でもない。しかし、ウェブを放浪していてこの言葉に行き当たった。周恩来は文化大革命の時代も無傷で生き抜いた国家の指導者なのだから、ここで取り上げる価値はあると思う。
 特に現代は激動の時代であり、また高齢社会でもある。おまけに、この幸齢ネットは「高齢」をもじって名付けているウェブである。こうした意味では、掲げた一文は意義あるものだと思う。「前進また前進」の箇所は、なにやら人民解放軍の兵士が右手に五星紅旗を掲げ、左手に小銃を持って進まんとする光景を彷彿とさせるが、できればそこまで読み取らず、高齢者こそ常に留まることなく人生の意義を探求するために社会参加をする必要があるのだ、という意味に取ってほしいと願う。


 はじめに言ったように、あきらめる、というのは、すごく大事なことです。人間は一人で生まれ、生きていく中ではどんな悲しみも苦しみも痛みも他のだれかに代わってもらうことはできず、やがては老いて一人で死んでいくものなのだーーーそのことを若いうちにできるだけ早く、明らかにきわめておくべきだろうと思うのです。
五木寛之「人間の覚悟」(新潮新書)より     2009/02/28
  「名言」としては、「はじめに言ったように、」という部分は要らないようにもみえる。能彦としてもできればこの部分は( )の中に入れてしまいたい。しかし、そうなると「あきらめる」ということが五木寛之の世界を離れて一人歩きをしてしまうので、ここは欠かせないのである。 筆者はこの本の序文のなかで「諦める」((注)ここは漢字である。)の意味を明らかにしている。原文のまま掲げてみよう。 「いよいよこの辺で覚悟するしかないな、と諦める覚悟が定まってきたのである。「諦める。」というのは、投げ出すことではないと私は考える。「諦める」は、「明らかに究める」ことだ。はっきりと現実を見据える。期待感や不安などに目をくもらせることなく、事実を正面から受けとめることである。」 そして筆者は、「諦める」ことで「希望にも、絶望にもくもらされることのない目で周囲を見渡すと、驚くことばかりであ」ることが見えてくる、という。だから、「そこで覚悟するという決断が必要になってくる。」、と結ぶのである。 このことが仏教の諦念と同じなのかわからない。五木寛之の著作は佛教に(特に親鸞に)基礎を持つものが多いから、おそらく同じものだと思うが、そうだとすると、私は少し「諦念」というものを誤解していた。そして、覚悟の必要性は私にもよく理解することができるようになるのである。


    


  どんな論理であれ、論理的に正しいからといってそれを徹底していくと、人間社会はほぼ必然的に破綻にいたります。いうまでもなく論理は重要です。しかし、論理だけではダメなのです。どの論理が正しくて、どの論理が間違っているかということでもありません。これは日常用いられる全ての論理に共通した性質です。
藤原正彦「国家の品格」(新潮選書)より     2009/03/01
 論理の人間社会への適用に関するこの言葉は、自分としてもこれまでの仕事の経験を通じて幾度となく体験したことである。筆者は、この理由を4つ挙げる。論理には限界があること、最も重要なことは論理で説明できないこと、論理には出発点が必要であること、論理は長くなりえないことがそれである。 率直に言って「論理には限界がある。」という理由に関しては私はあまり確かな理由だとは思わない。筆者が掲げているアメリカにおける国語教育の例などが論理の問題なのかどうか分からないからである。 しかし、それ以外の理由は納得できる。一番良い例が「人を殺してはいけない。」ということは人間社会にとって重要なことだが、ところが戦争においては人を殺すことが容認される。ここにおいて「最も重要なことは論理で説明できない」ことになってしまう。論理には出発点があるが、その出発点は論理ではなく情緒によって始まる、というのも当たっていると思う。「論理は長くなりえない」ことも、論理が長くなればなるほど、途中に当否が灰色の要素が入り込むというのも納得できる。 私は日常の生活行動においてはどちらかというと理屈屋と見られていると思う。いや、小言幸兵衛と思われているのかもしれない。しかし、論理だけではいけないと思って行動してきた。そのことが確信できて良かったと思っている。


    

 むしろ、現代日本において、真の武士がいなくなっていることが問題ではないか。自己犠牲や、人を守ることを優先しない。人の首は斬っても、自分の首は差し出さない。そんなことが当たり前の時代となっている。ゴネた者が得をするようでは、組織や社会は荒廃する。 駅のプラットフォームから落ちた人を助けようとして、自分を犠牲にした韓国人青年や警察官の行動に、人々が感動を覚えるのは、人を守ることが稀となった証左である。
小池百合子「女子の本懐」(文春新書)より     2009/03/02
  「むしろ」から始まっているのは、この文の前に守屋武昌元防衛相事務次官との確執が述べられているからである 。しかし、「むしろ」がなくても現代に適合する指摘だと思う。武士は、日常的に肉体的訓練を行うが、また精神の 鍛錬にも力を尽くすものである。だから、打算、利害得失を念頭において行動することはその鑑とされることがない 。
 文中に登場する韓国人青年や警察官は、その行動をみると、どうにも救いようがない状況下にあっても、己を捨ててまで人を救おうとしている。筆者はそこに武士の魂を見て取り、反対に、長く居座ろうとした元次官の行動と際立 たせているのである。確かに、真の武士は見かけなくなったと思う。

   

 これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。
高橋和己「孤立無援の思想」(河出書房)より     2009/03/03
  ただ動きまわるばかりだった時代を過ぎ、少し自分を冷静になってみることができるようになったときが、ちょうど高橋和己や柴田 翔などの作家が活躍する時代であった。この中でも「悲の器」、「憂鬱なる党派」、「邪宗門」、「我が心は石にあらず」など、彼の長篇に惹かれたが、しかし、一番心に残った言葉が「孤立無援の思想」であった。 けれども、掲げた文章では単なる頑固を賞賛するもののように思う人もいるかもしれない。そうではないのである。この言葉は「孤立無縁の思想」の章の最後にあるが、その直ぐ間近にある叙述で説明すると、まず、「限りある生の時間のうちに生き、一回性という動かし得ない制限を持つ」人間は、「無限の順応体として自分を訓練する必要はない。」とする。そして、「蝉脱(せんだつ)や転進の意味を認めないわけではないけれども、たった一つか二つの役割を自ら裏切ることなき態度の上に果たすことができれば、(人の生き方としては)おそらくそれで十分なのであり、役割が終わったと思えば、静かに退場してゆけばいいのである。」とする。 私の理解では、文学に携わるものであれ、政治に志すものであれ、一人の人間として「情勢論」に振り回されることなく自我を持ち、貫けということかと考えている。 


 テロリズムの本質は、テロリスト自らが恐怖心を抱いて、敵を脅かして追い払う、あるいは気後れさせてある政策をやめさせることである。更に簡潔に表現すれば、テロリズムの本質は、恐怖、脅し、追い払うである。
佐渡龍己「テロリズムとは何か」(文藝春秋社)より     2009/03/04
   アメリカのブッシュ前大統領は、9.11テロに際し、「これは21世紀の戦争である。」としたが、テロが戦争である、とする点では筆者も同様である。ただし、注意すべきは、この本は9.11テロの前に書かれている。それまでの日本国政府は、外国で日本人がテロの対象になっても、その外国における犯罪行為であるとして対応していた。筆者はこういう認識が対応を誤らせ、かつ日本人をテロの標的にするものだとして、考え方の大転換を迫っている。 ここに掲げたところから、テロとは建設的なものを求めないものであることは読み取れると思うが、筆者は更に、「取る」、「奪う」に代表される人間の欲求「~を得たい、~になりたい、~をしたい」でもないと念押ししている。国内にいてテロとはあまり縁が無いと思っていると、つい、外国での事件に際して「テロリストと話し合いによる平和的解決はできないものか?」と考えがちだが、テロそのものが心の戦争を仕掛けていることを想起すべきであろう。