「旧聞批評」反論ホーム・ページ(7)
螺旋形の収束モデル
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「電子メデイア社会では双方向性の議論ができる。」という表現は私が思うに
一般の人に誤解を与え、そして多分に多くのネットワーカーを惑わしている。
「双方向性の議論」==>受け手も情報発信ができる。
という意味では正しい。電子メデイア社会では多くの人がパソコン通信やイン
ターネットのホーム・ページ、ニュースグループで情報発信しており、これにア
クセスして対応しているネットワーカーが多いのも事実である。しかし、特には
情報発信していない人がこの状況を見聞すると、その割合的多寡には気がつかず
に、自らも情報発信しないことには真のネットワーカーでは無いかのように考え
がちである。
試みにどなたも、時として「自分はアクテイブ・ネットワーカーではないが・
・」という自己表現したことがなかったろうか?しかしこれは誤った考えである。
極めて当たり前のことであるが、ネットワーカーは好きなときに、自分の気の合
ったテーマに触れてみて、その情報の質や情報を取り巻く環境に応じて情報発信
すれば良いのであって、「双方向性」という言葉に惑わされることはない。
人には「何々をしたい」という獲得願望と同様に「何々はしたくない。」とい
う不作為願望がある。この願望は人間の本来の権利である自然権として尊重され
なければならないから、電子メデイア社会においても情報発信したくない感情を
マイナーなものと考える必要はない。
私は「サイレント・ネットワーカー」という表現をしているが、私自身は色々
な態様を抽象して分類したくらいだから決してマイナーなものと思っていない。
しかし、もしこのネーミングにマイナーな響きが多いということであれば、更に
検討してみたい。但し大事なのは、サイレント・ネットワーカー自身が、自分も
電子メデイア社会を支える基本的な要素であるという意識をもつことではないか
と思う。
「双方向性」についての誤解はまだあると思う。
ネットニュースでも、ホーム・ページでも、あるいはまた我がニフテイのフォ
ーラムにおける会話でも、AとBが話をしている最中に「お二人がお話のところ
に割り込みますが」とか「横から口出ししますが、、」と断る場合がある。更に
Aが「今はBさんと意見を交わしているところだ!」とか「話をとるな。」など
と不快感を示されることがあるが、この両者とも「電子メデイア社会では双方向
性の議論ができる。」ということを誤解しているものではないかと思う。
もともと電子メデイア社会でのコミュニケーションは電子メールを除けば普通
は個対多のコミュニケーションであるから、通常の個対個のコミュニケーション
と同様に考えるのはおかしい。まさかとは思うが「双方向」ということを文字通
り「双つ」(つまり「二人」)と考えてはいないだろうかと思う。もしそうなら
ばそういう考えは間違いである。パソコン通信やホーム・ページでの会話には、
いつ、誰が介入しても構わないのである。この様な誤解は電子メデイアが発展す
る以前の、「コミュニケーションは個対個の関係において行われる」と理解され
ていたときの考えをひきずっているのではないかと思う。
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では、この様な誤解を持たれないような表現はないのだろうか?私は「電子メ
デイア社会での議論は螺旋形のコミュニケーションである」といったらどうかな
、、、と思い始めている。
このアイデアは決して全くのオリジナルではない。マルチメデイア社会におけ
るコミュニケーションの「螺旋収束モデル」を考えたF・M・ロジャーズのアイ
デアにヒントを得たものである(同著「コミュニケーションの科学−マルチメデ
イア社会の基礎理論」213ページ参照・安田寿明訳・共立出版)。
彼の理論を細かに説明することは多少横道にそれるので、差し当たり自分が取
り入れようとしている「螺旋形のコミュニケーション」に関連する説明に限って
みたい。
ロジャーズは、まずコミュニケーションとは、相互理解のために参画者が互い
に情報をつくりわかちあう過程であると定義する。そして相互理解がコミュニケ
ーションの第一義的な機能ではあるが、相互理解は決して絶対的な意味では到達
しえないとする。そして一般にコミュニケーションでは当面の作業として、ある
程度の相互理解が達成されればそれで十分であるとする。
ここでロジャーズは「相互理解のためのコミュニケーション収束過程モデル」
と「コミュニケーションの螺旋収束モデル」の二つの図を用意している。
そして「相互理解のためのコミュニケーション収束過程モデル」において、上
述の「ある程度」の相互理解とは、情報参画者Aの理解部分と、情報参画者Bの
理解部分とがそれぞれ一つの円で示され、その重なり合った部分がAとBとの相
互理解部分とされる。逆に言えば重なり合わない部分は相互理解がされなかった
部分である。
「コミュニケーションの螺旋収束モデル」の図では、上述の二つの重なり合っ
た円の周囲をとりまいて、情報参画者Aの発する情報1が楕円形(実際には螺旋
形である。以下同じ)の軌道に乗り、情報参画者Bに渡される。Bは情報1を解
釈した後新たな情報2としてまた楕円形の軌道に乗せて同方向に送り出し、Aに
達する。従ってこの軌道は楕円形上になって二つの円を取り巻く姿になる。Aは
Bから受け取った情報を解釈し、これを情報3に変換して、今度は軌道を少し円
の内側に修正して(螺旋形になるように)参画者Bに送りだす。この様な繰り返
しにおいて、結局楕円軌道(実際は螺旋形の軌道)は次第に二つの円に近づく。
二つの円の重なり合う部分は「相互理解のためのコミュニケーション収束過程モ
デル」の円と比べるとはるかに大きい((注)このモデルは情報参画者が二人以
上なら機能する。)。
つまり、この螺旋形(図の説明でないので、螺旋形と明記する。)の軌道は時
間的経過を意味しており、収束への過程は相互に協力しあうか、一方の個人が他
方に働きかけて共通の関心や注目事象への合意を得るよう螺旋的な軌跡を描いて
いくものである(前掲書212ページ参照)。

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以上、図を文章で説明したので紛らわしいところもあったかもしれないが、お
おまかな理解はして戴いたかと思う。私はこれにヒントを得て「双方向」の表現
は「螺旋形」に置き換えることができると考えた。
その要点は「電子メデイア社会におけるコミュニケーション(=議論)は、サ
イレント・ネットワーカーを含めた多くのネットワーカーという星を集めた星雲
を螺旋状に旅する彗星の様なものであり、これはあたかも相互理解という中心に
向かって進む。」というものである。彗星に反応する星もあり、反応しない星も
ある。それはどんな彗星であるかによる。しかし大きな星雲を構成するものであ
ることに違いはない。
次回に、フォーラムでの発言を例にして更に考えてみたい。
[1997.10.25]
