「旧聞批評」反論ホーム・ページ(4)

ニフテイ判決の論評について

(10)
 ここではパソコン通信においてニフテイ等が被告となった事件の論評を紹介す
る。論評者は先にも数度述べたが、ジュリスト10月1日号(NO.1120)
判例批評「パソコン通垂ニ名誉棄損」(判決は東京地裁平成9年5月26日)を
書かれた高橋和之東大教授である。
 私は以前とは違って法律家の方と接することは少なくなったので、残念ながら
高橋教授の専攻が何か知らない。しかし論稿中の(注)に民事訴訟法専攻の伊藤
眞教授にアドバイスを得たという記述があるので、おそらくは民法学者であろう
と推測している。しかし間違っている可能性もあるので、そうであれば紹介の間
違いをお詫びしたい。
 また、この論評はよく纏められたものであり、首尾一貫している。私としては
この論評の結論の大部分について賛成できないが、しかし、その理由は高橋教授
がパソコン通信に関する実情についての理解がやや足りないためではないかと考
えており、その点を除けば大変貴重な論評であると考えている。
  したがって私としては、この論評のうち、パソコン通信やインターネットを実
際に行っているものとしては納得できない点を中心に紹介することにする。

 (11)
  事件の概要は、原告Aが、ニフテイの現代思想フォーラムの会議室に被告Bが
4か月にわたって行った書き込みにより名誉を侵害されたとして、B及びフォー
ラムのSYSOP、ニフテイに損害賠償を求めたものである。
 残念ながら、この事件を概説するだけでも相当のボリュームを必要とするので
、興味のある方には前記文献をご覧戴くことをお願いする。
  判決は、被告らの名誉棄損の事実を認定したが、被告らはこれを不服として控
訴している。
 
 (12)
  この問題に関する論者の見解、特にBの責任については論者は否定する立場に
立っている。つまり名誉棄損は「表現の<品性>は別にして、名誉棄損というほ
ど<激烈>なものかどうかには疑問が残る」とし、判決はこの認定について明確
な説示がないとしている。そしてこういう説示がないので、公人理論によれば名
誉棄損の成立は認めるべきでないとする。
 なお、被告SYSOPの責任については、判決が「不作為による不法行為」と
とらえてSYSOPに責任を認めたことに事実認定上の問題として疑問を呈して
いる。ただし、判決がニフテイの責任を使用者責任として認めたことについては
是認している。
 
 (13)
 さて、ここではテーマが「反論ホーム・ページ」に関するものであるので、こ
れについての論評をもう少し紹介する。SYSOPの責任やニフテイの責任につ
いてはまた別の機会に譲る。
 論者は前述の通り、名誉棄損の認定について明確な説示がないとして公人理論
によれば名誉棄損の成立は認めるべきでないとする。この「公人理論によれば」
という表現を論者がしているわけではなく、これは能彦の翻訳である。けれども
この翻訳が間違っていないことは出典を見てもらえば分かることである。
 ここに至る論者の主張は次のようになっている。

1 人の名誉は他人の表現によって棄損されうるが、同時にその名誉は表現によ
って回復することも可能である。
2 しからば表現の自由の観点からは、名誉棄損に対する救済方法は、表現者に
対して法的制裁を科す前に、まず反論・「対抗言論」により名誉回復を図ること
を求めるべきである。
3 法的制裁は対抗言論が機能しないときにその限度で認めれば良い。

 以上が論者の基本的な考えであるが、これを支えるのが公人理論である。公人
理論は上記の3の「対抗言論が機能しないとき」の判定を巡って登場する。
 対抗言論が機能しない場合とは「名誉を棄損された者が名誉棄損者が使用した
のと同等の表現手段を使用しえない場合である、とする。「例えば」として論者
は次の様にいう。
 
 名誉棄損がマスメデイアを通じてなされたとき、被害者がその反論を同等のマ
ス・メデイアを通じて行いえないならば名誉の回復は不可能である。アメリカの
判例理論では公人が名誉を棄損されたと主張する場合には、加害者に「現実の害
意」があったことを公人の側で証明しなければならないとしている。
 なぜ、「公人」に対する言論をこb謔、に厚く保護するのかというと、その最
大の理由は公人は通常マス・メデイアへのアクセスを有するという点に求められ
ている。つまり公人の場合は例えば記者会見を行い、反論・弁明をすればマス・
メデイアが報道してくれるから、ここでは加害者と被害者は自由にしうる表現手
段に関しては平等の立場にある。

 更に論者は続ける。
 
 このように、公人理論の最大の正当化の根拠が、表現手段に関する両当事者の
平等性にあるとすれば、この理はパソコン通信やインターネットにおいても妥当
する。(中略)したがってパソコン通信上での名誉棄損については、被害者がア
クセスを持つかぎり、その成立を限定的に考えるべきだということになる。

 次ぎに論者は、「それでは平等な立場での対抗言論が可能ならば常に名誉棄損
の成立を否定してよいか」という命題を掲げ、これを否定して少なくとも被害者
に対抗言論で闘うよう要求しても不当ではないと言える様な一定の状況が必要で
あるという。
 この例としては、第一に「被害者が、批判・攻撃を受けることが予想される様
な立場に自ら進んで身を置いたという事情を挙げている。
 また、第二の例としては、批判者が同じ攻撃を執拗に続けるような場合には、
その都度対抗言論でで対応せよと要求するのはフェアでないとする。

(14)
 紹介はここで留める。論者は結局この様な理論で被告Bの名誉棄損の成立を否
定する。
 以下、これについての私の考えは次回に述べる。しかし、ここでは「平等の立
場」、あるいは「平等性」という言葉は出てくるが、「双方向性」という言葉は
出てこないことに留意して欲しい。
 けれども、私は「双方向性」も「平等」もパソコン通信やインターネットにお
いては同じ次元の問題として考えてよいと思う。何故なら、論者が問題としてい
ることは自由な立場でアクセス出来るかということであり、「双方向性」も「平
等」という法的評価を示す用語とは異なるけれども、現実の作業は何ら変わるこ
となく自由な立場でのアクセスを技術として保証している言葉だからである。

 このことを認めるならば、論者も前回まで紹介してきた牧野弁護士と同じくパ
ソコン通信やインターネットの双方向性を強調していることをお認めいただける
と思う。これは双方向性をもって平等なアクセスと言い換えても何ら変わるとこ
ろが無いはずである。
 もし違うとすれば、それは公人理論の範疇からは抜け出たときに問題になるか
もしれないが、この点は次回以降留意して論を進めることにしたい。[1997.10.20]