好奇心と責任

ダイアナ元英皇太子妃の悲劇的な死があってから2カ月になろうとしている。
彼女の死を悼む行事の報道は下火になったが、これと共に彼女に死をもたらしたものの責任を論ずる報道も日本では下火になった様だ。
しかし公人の個人としてのプライバシーの保護と、公人の公的生活の報道の調和についての考え方は旨く仕切り出来たのだろうか。
 こういう目で少し前の新聞記事を追ってみた。


伝えられるところによれば、英国のマスコミは真剣かつ積極的に努力していると思われる。

例えば、英国で新聞や雑誌の報道をチェックする自主規制機関「報道苦情委員会」(PCC)は、個人のプライバシ−をより保護するための指針をまとめた(9月26日・朝日新聞)。
その内容は

(1)違法な手段や「執拗な追跡」で撮影した写真は掲載しない。
(2)写真通信社のPCC加盟を進める。
(3)子どものプライバシー保護を強める。
(4)撮影を控える範囲を広げる。

ということのようである。
こうした仕切りができることは、私のようにあんまり公人の私生活に関心の持てない向きには大変結構なことだと思う。


そもそも私は、こういう公人の私生活について覗き見することを好むタイプではない。
日本でもそういう類の雑誌や写真雑誌があるが、ああいうものを読んでも何も自分の情報源が広くなった様に思わないし、教養や知識が深まったとも思わない。
何か社会の進歩や文化の発展に寄与することがあるとも思わない。

ある事件がプラスであれマイナスであれどちらかの方向に動くとしたときに、その公人の私生活上の何事かが世界史に残るくらいの大きな出来事の中で、かなり大きく影響することがあれば、それには関心を持たなかったことの不明を恥じ なければならなくなるかもしれないけれども、おそらくその様なことは無いと思うし、あったとしても自分では関与することが不可能なことであるから、これまた自分の関心外のこととして何も問題がない。

したがって英国のPPCがそういう指針を広めてくれれば、逆に要らざる情報過多社会に身を置かなくとも良いから、より一層平穏な生活が営めるとさえ考えている。


けれども、こういう私の考えとマスコミ社会とは認識が違うようである。
例えば、日本ではないがフランスのフィガロ紙はマスコミの言い分として「匿名の群衆」が公人の私的な情報を欲しているとする。
それは何故かというと、公人はその存在が大きくなると匿名の群衆が公人に親近感を持つからだという。
 そして、親近感をもった匿名の群衆の欲求を満たそうとしてマスコミは取材に走るが、今回の様なことが起こると、親近感を持っていた公人が匿名の群衆から奪われることになる。
そこで彼らは今度はマスコミを攻撃するが、これは「匿名の群衆の倒錯」であるという。

私はそうは思わない。しかし、身近な体験においてもそういう事例は多い。
所謂ミッチーブームのとき、自分の身内がテレビにその姿が写ると他の仕事は中断して食い入る様に見つめていたり、テレビ番組から関係する番組ばかりを拾いだしていたという記憶がある。

 こういうことを念頭においてみたとき、一見するとこういう話は鶏と卵のどちらが先かという話でしかない様にも見える。
「匿名の群衆が欲している。」からだとも言えるし、マスコミが報道するからだとも言えるからである。
けれども、仮に「匿名の群衆が欲している。」としても、そしてそういう人が多いとしても、「匿名の群衆」に何の責任があるというのだろうか。
マスコミは、特に所謂表現の自由が保証されている国にあってもどこでもそれ自身の一定の取材基準を置いているはずである。また、記者にしてもどういう取材は良くてここから先は取材すべきでないというそれぞれのプロフェッショナルとしての基準があるべきである。


 先日も紹介した北村 肇氏の「腐敗したメデイア」という著書では、どの記者も、あるいはデスクまでもそういう葛藤を感じていることを物語っている。
 従って、匿名の群衆が欲すると欲しいないとに関わらず、取材側の論理としてある種の取材の程度はここまでしかできない、あるいは取材はしても表現しないという範囲を明確に持っていなければならないと思う。
公人の私的な情報もその種のものだと考える。

 匿名の群衆には、他の情報も登載されているメデイアを買っては(得ては)ならないという制限はない。
従って匿名の群衆には何の責任もないと考える。
 この意味でフィガロのいうことはおかしい。[1997.10.12]