ナツメロは日本人の歌
「ナツメロは日本人の歌」などというタイトルを付けると飛び上がる人がいるかもしれない。
しかし、本当はそんなに力んで付けたタイトルではない。
言いたいのは「歌は何であれ心の支えである。」という程度のことである。
ところがここに、この春社会に巣立った若者に対して「新人にナツメロは似合わない。」と題して論陣(?)を張る新聞があるものだから、ナツメロ擁護のためにこういうタイトルにしたまでである。
「新人にナツメロは似合わない。」と題した社説を掲げたのは今年4月初めの読売新聞である。
読んでみると、論説氏が入ったカラオケのある店で、会社の仲間らしいグループ客が次々にカラオケを歌っていたが、若い人が多いのに殆ど70年代以前の曲であったという。
その輪の中心に上司らしい男がいて盛んに拍手をしており、論説氏がこういう光景をみて掲げた社説が「新人にナツメロは似合わない。」である。
社説は、こういう光景を「世代間のほほえましい交流ならいいのだが、若者が、古い世代にただすり寄っているだけだとすれば、これはさびしい限りだ。」として、若い世代にみずみずしい感覚を発揮するよう求めている。
そこに現れたキーワードを使って論説氏の論理を構成するとこうなる。
「この春」「社会人の仲間入りをした」「多くの若者」は「早くも、いくばくかの処世術を覚えた人がいるかもしれない。」
「しかし新社会人に求められているのは若者らしさだ。」「ナツメロではなく自分たちの歌なのだということを忘れないで欲しい。」
「制度疲労が目立」ってきた「今のシステムを見直し、構築するには、既成観念にとらわれない柔軟な発想が必要である。」
「若者の出番がここにあると思う。」
これらの主張はそれなりに結構なことであると思う。
みずみずしい感覚を発揮して欲しいと、若者というか若い世代に期待するのは全く同感である。
しかし、こういう論説氏が、一体今の若者文化がどういうものだと理解しているのだろうか?
社説によると「若者文化の中核」はパソコンとTVゲームであるとする。特にこの二つは団塊から上の世代の多くが拒絶反応を示しているものなので「いかにも象徴的である」ともいう。
こういう認識は「昨年の新入社員を対象としたある調査で<日ごろコミュニケーション手段としてよく利用するもの>を聞いたところ5割強が電子メールを挙げ」たこと、またやはり半数が「TVゲーム世代」と呼ばれることに悪い感じはしない。」と答えたことによっている。
しかし、調査対象がどんなものか、また方法がどんなものか分からないことに
は、これをもって「若者文化」と規定することは所詮無理であろう。
私の知るところでは、この種の調査は概ねリクルートなどの就職関連産業(企業)や電通・博報堂などの広告専門会社が行っているものである。
しかもこの種の産業はマスコミと同様できるだけ「先見性」のある造語(あるいは「先見性があるかの如くに作った造語」と言うべきかもしれない。)をし、これをいわば商品」にも近い情報として社会に送りだしているものであるから、無批判的にこの情報を受け入れるのは世論形成に影響を与える大新聞としては軽率ではないかと思う。
また仮に、「若者文化の中核」がパソコンとTVゲームであるとしても、そこからナツメロを否定する理由があるとは思えない。
何と言ってもナツメロにはナツメロの良さがあるから一時はブ−ムとして存在したのであり、それを親や先輩から伝え受けたり、或いはマスメデイアを通じて体得したとしても不審なことは何もないからである。
更に、「ナツメロはパソコンやTVゲームを中核とする若者文化と相容れない。」と考えているなら(そこまでは考えていないであろうと思うものの)、やはりナツメロの為に一言しなければならない。
ここでの若者文化はデジタルの世界であり、ナツメロは多くは演歌として義理・人情・悲恋・望郷を歌う。
いうなればアナログの世界であろう。
また若者文化を合理主義の文化、ナツメロを非合理の文化と考えることもできよう。
しかし、デジタルであれアナログであれどの世界でも伝えようとしているものは、結局は人間の意思・感情・心であり、それ無しにはどの世界も文化としては存在する必要がないであろう。
また合理的なものであれ非合理的なものであれ、それが文化である以上結局人間の意思・感情・心を豊かに潤すが故に発展してきたものであろう。
そうであれば等しく人間である若者の心の間に溶け込まない筈のものではあるまい。
論説氏も考えてみるがいい。論説氏もかつて新入社員の頃、高年の上司や先輩にどういう付き合いをしていたのであろうか?
そしてそれが今の時代状況、文化状況とそんなに違っていたのであろうか?
「新聞社は古い価値観が確実に中堅社員や若い社員にまで受け継がれていく」という指摘もある(北村 肇「腐敗したメデイア」51ペ−ジ・現代人文社)。
むしろ入社当時の新聞社の文化と新入社員が経験してきた学生文化との間には、今の論説氏が体験している文化と若者文化と言われるものとは同程度以上の落差があったのではないかとさえ思う。
しかし、新しく社会人としてスタ−トした若い世代がナツメロを覚えていたり、あるいは上司の前でこれを歌うからといって、彼らの今後にそんなに危惧を抱いたり危機感を抱くほどのことがあろうとは思えない。
論説氏が本当に否定し、嘆きたいのは、これからの時代に活躍すべき未来のある若者が訳もなく高年の上司におもねっているかのような態度のことであろう。
けれども振り返ってみれば分かるように、かつての若者も、必ずしも高年の上司におもねる態度ばかりをとってきたのではない。
また、一見そういう態度に見られる仕種があったとしても、それがいつまでも続いてきたというものではない。
ある時期に至り、自己の社会的存在としての意義を悟ったときは決然として求められる方向や自ら見いだした方向に進んで行ったのである。
人間は、幾ら時代を超えても、大抵の場合何かしら進歩したいという基本的志向があり、これがそんなに変わるものではないと思う。
その時代々々に応じて己を自覚し、進むべき方向に向かうというものではないだろうか。
私は現在の若者も基本的にはこのかつての若者のとった道を進むものと思う。私には論説氏が若者世代に期待するところが大きいあまり、過大に嘆いているとしか思えない。
悪く言えば、我々の先輩が、そして我々が時折それぞれの後輩に投げかける言葉であった「今の若い者は仕様がない。」という言葉を、多少理
論的に言いなおしているに過ぎないと思う。
況んやナツメロとは何の関係もないことであろう。[1997.10.9]
