「世論」の確かな根拠が欲しい
「旧聞批評」と題しているのに比較的新しい話題を取り上げることは一寸面映ゆ
い。しかし、「旧聞」としたのは、どうしても時間的制約があって時代の先端を進むわけには行かないのでこうしたまで。間に合うものならトレンデイでありた
いと思っている。それにこの佐藤長官の問題はまだ正式に決着していないにも関わらず、19日、20日とあまりどこの新聞も取り上げないと言う妙な静寂の中
にあるので、最早「旧聞」に属すると考えた。
なお、この欄は決して「新聞批評」の向こうを張っているわけではない。時には今日の様に「新聞」報道を取り上げたりするが、趣旨は「古い話題でも追っか
ける欄」と言う程度である。各位には誤解無いようにお願いしたい。
さてここで取り上げるのは、佐藤総務長官起用に関する新聞報道についての感想である。それも佐藤孝行氏が総務長官に起用されたことについての感想ではな
い。このことは念を入れてお断りしておく。
理由は、私はここでは政治的な意見を表明するつもりがないからである。このコラムは、私もスタッフを務めるパソコン通信フォーラムに転載するつもりでい
るが、そこで政治的な立場を明らかにした議論を行うことを好まない、というのが最大の理由である。
ところで私は、最近たまたま在京6大紙に目を通す機会があったので、橋本首相が佐藤長官を起用したときの12日の各紙朝刊には丁寧に目を通した。既に知
られていることであるが、朝日、毎日、日経、東京の各紙は一斉に社説・主張でその起用を非難した。しかもその非難は極めて激しかったと言って良い。これに
対し、読売、産経は社説ではほぼ同一の論調であり、過去に問題があったとしても与えられた場で使命を果たすことを期待すると言うものであった。
例えば、朝日新聞は社説の全文がこの問題に言及し、行革を行って国民に痛みを求める以上、政治や政治家が厳しい倫理観を求められるのは当然であり、刑事処
分が終わっているといっても政治家はその経歴は問われつづけられ、佐藤氏はこれにふさわしくなく、「<橋本行革>に首相みずから水をかけた人事と言わざる
を得ない。」としている。
毎日新聞は、やはり「期待を裏切った佐藤氏入閣」と題し、その起用に反対する理由として「だれでも長い人生の間に罪に問われる可能性はなしとしない。一
度の過ちで、その人に罪人のレッテルを張り、一生を差別しつづけることは避けなければならない。社会復帰のため、さまざまなチャンスを与えることも必要だ
ろう。([編注]段落)だが、それは本人が罪を認めて、償いをしたことが前提になる。佐藤氏はロッキード事件について、一貫して検察の謀略だとしている。
その主張からは当然のことながら反省や償いは出てこない。」としている。
東京新聞も「倫理忘れ行革は可能か」と題し、就任の会見でも、過去のロッキード事件に関して「かなり前のことなので忘れた。」として反省の言葉の無かっ
た佐藤氏の入閣を納得できないとしている。特に、首相が「有能な方であり、処分が完了していれば、私はとがめようという気にならない。」としたことについ
て「私人であれば首相の言う通りだろう。佐藤氏は自民党で総務会長などを歴任したが、これは任意団体の中のことである。しかし、国会議員、閣僚は公的地位
であり、より厳しい倫理観が求められる。」として反対する第一の理由にしている。
日本経済新聞も「政治への信頼裏切る佐藤氏の入閣」とし、毎日新聞と同様の見出しで、「政治にけじめが失われた。」としている。ここでは、佐藤氏を受け
入れられない理由として、「首相は佐藤氏について<議席が与えられているのであれば(入閣に)いったい何に問題があるのか。>とも述べている。しかし、佐
藤氏は昨年秋の総選挙では小選挙区で落選しており、重複立候補の比例代表選挙でかろうじて復活当選している。選挙民の強い支持を得ているとは言えないこと
を忘れてはならない。」としている。
他方、この起用を消極的ながら擁護する読売は、「首相のいう通り、法律的な面ではすでに問題はないが、「有罪判決」にこだわる声が少なくないのも事実だ。
首相も佐藤氏もしっかりと結果を出すことで、そうした声にこたえる責任がある。」としているだけである。
また、産経新聞は佐藤氏の長官に起用に強い批判が強いのは当然だ、とした上で「だが、一般論で言えば、政策調整や対外交渉などで剛腕が求められる政治の
世界では、「クリーンだが能力不足の」の議員は役に立たないのも事実である。首相が批判を覚悟で入閣を認めた以上、佐藤氏は党行革推進本部長として示して
きた力量を今度は内閣の行革担当ポストで存分に発揮し、批判をはね返さねばなるまい。」としている。
以上の4紙を仮に「非難派」2紙を「擁護派」と区分けすると、「非難派」の論点で共通するのは1点であり、過去に政治的な権力行使の面で刑事処分を受け
たものが閣僚となることは政治倫理に反するというものである。「非難派」の各紙には他にもこの起用を非とする理由はあるものの、この政治倫理に関する起用
反対理由を考えるとき、私は一概に賛成できないところが多い。かといって、起用そのことについて賛成ということではない。こういうときは中々発言しづらい
ものであるが、幸いにしてことは決着の方向にあり、新聞社の政治部も二日間もこの話題を取り上げない「旧聞」になったので一言書いてみることにしよう。
私は、各紙については余り長々しい引用はしたくなかった。それでも、政治倫理に関する核心部分は落とせなかったと思っている。特に、何故その新聞が佐藤
長官を起用することに拘泥しているかという核心部分は的確に拾ったと思っている。しかし、6紙にも渡って掲げたので全体として長い引用になった憾みはある。
この辺はお読みになる方にお詫びしておきたい。
その上で総評すれば、各紙の佐藤長官起用を非とする理由はお粗末であるとしか言えない。要するに「この人は、昔、ロッキード事件で有罪判決を受けた人で
ある。こういう人は閣僚として不適当である。」という一事である。こういう理由が政治的思惑とか、国民感情に訴えるには端的で分かりやすい説明材料を用い
た方がいい、ということで選ばれたのなら理解もできる。例えばどこかの党首の様に「駄目なものは駄目!」という場合がそうである。
しかし、いやしくも社説で主張しようというからにはもっと説得性が欲しい。他の理由とも併せて起用が許されないと言うことなら、柔道で言う併せ技として
評価するが、「一本技」としてはどうかな、というのが偽らざるところである。しかし、おそらく政治倫理に抵触すると言う理由以外に強い起用反対理由など
無いと思うから、なおのこと情けない。
まず、朝日新聞は「刑事処分が終わっているといっても政治家はその経歴は問われつづけられる。」という。その限りではよく分かる主張である。
しかし、その問責はいつまで続くのであろうか(?)
この点に関して毎日新聞は「だが、それは本人が罪を認めて、償いをしたことが前提になる。」としている。
朝日新聞はこの立場を容認するのだろうか(?)
そして容認するならば「政治家が反省した」かどうかのメークマールはどこにおき、あるいは反省したと認めれば起用を追認するのであろうか(?)
その後の朝日新聞の9月18日の社説を読んでみたが、「総務長官就任後、三権分立を尊重し、有罪判決を受けたことを反省する、と述べたものの、国政の責
任を負う内閣の一員にふさわしいとは、とてもいえない。」という論調からは、そういう容赦はなかった。
この点、毎日新聞の高尾義彦記者が、同じ18日の「記者の目」で「世論や党内からの批判に押される形で、佐藤長官は16日ようやく反省の言葉を述べた。
その言葉がこれまでのような「政治的行動原理」を優先した発想の産物ではないか、との疑念を払拭できるかどうか、見守りたい。」という論評とは明らかに異
なる頑なものであると思う。
しかし、こういう論理を貫くならば、一度刑事処分を受けた政治家は、そもそも政治家として存在することを許さないとしなければ首尾一貫しないのではない
か。従って同じ日の朝日新聞の社説のすぐ続く個所で「11回もの当選を重ね、<みそぎ>は済んだという主張がある。一議員あるいは政党の役員についてなら
通る余地があったとしても、閣僚としての公の地位について、それは通用しない。」という主張、なかんずく「一議員あるいは政党の役員についてなら通る余地が
あったとしても」は通らない主張ではないかと思う。
何故なら、政治家としての存在を許す以上、政治は権力を目指すものであるから政治を志すものは首長や首相を目指すのである。その過程において首長や首相
の足がかりとするために政党の役員や議会の役職を得なければそこに至らないのは道理である。そういうことを目指すものとしての刑事処分を受けた政治家の存
在を認める以上、閣僚なら駄目だが議員や政党(しかも政権党)の役員ならいいということが、既に政治倫理に例外を設けることであり、この部分は自家撞着で
あると思う。
私は、朝日新聞が厳然として厳しい立場にたつというならば、そういう政治家を政治家として認めている自分達の報道社会こそが問われなければならないので
はないかと考える。
毎日新聞は、政治家本人が罪を認めて、償いをしていればチャンスは与えられていい、としている。しかし、その主張も前述した同紙の高尾記者の記事によれ
ば、佐藤氏に限りない不信を抱いており、特に司法の権威をおろそかにするものとしてその反省の真意について危惧を抱いている。
けれども、一つの考え方であり、決して私がそう考えているということではないが、司法もまた被疑者と検察の攻撃防御の中で下される判断であるから、有罪
となったものが刑に服しつつもこれを批判するのはこの社会のルールとして認められないものではない。そういう考えは十分にあり得る。例えて言えば、内乱罪
の冤罪を主張する主犯が、刑を執行されるに先立って裁判批判や検察批判を行うことは許されないことではない。司法も検察もそういう批判に耐えうる判断をし
たものならば、そういう間違った批判に動揺することはないわけで、何も報道の社会が司法擁護のために政治家を非難する必要は無いということになる。
毎日新聞の主張が弱いのは、仮に佐藤氏が以前に、、、それも入閣が取りざたされる以前に、前記した反省の弁があったなら、いったいどういう対応をしたの
か、と不思議に思いたくなる点である。高尾記者の記事では、そういう反省の弁だけでは足りないかのように思われるが、さりとて朝日新聞のような強硬さはな
い。まさか形だけの遵法精神を説くだけではあるまいに、、、と心配する。
東京新聞の起用反対理由は、政党の役員と閣僚とは公人としての資格が違うと言うことである。しかし、これは単なる形式論理である。では、佐藤氏が日本的
風土と日本の法制の中で元々国会議員として公務員であることをどう説明しようと言うのか(?)
既にして刑事処分を受けた経歴のある政治家が公務員になっているのである。形式論理で政党の役員はいいが閣僚は駄目と言うなら、国会議員なのだから閣僚
になって何がおかしいか、と言うことになる。
実際は、政党の役員と言えども政権党の役員なのである。もし、政治倫理を問題にするならこのことを取り上げ、政権党の役員になることがそもそもおかしい
ということを論じなければならない。
日本経済新聞の場合も、小選挙区制の選挙区選挙で落選したから民意は得ていないというが、これは制度論なのだからどうにもならない。それならば、複数立
候補して比例区当選した議員は民意を反映していないから閣僚になれないという議論になる。
「擁護派」の社説についても意味不明の個所は多い。しかし、事実上問題は既に決着しており、ここで改めて取り上げる気がしない。新聞の世論調査の結果では
ほぼ75%の人が一つの方向を打ち出しているようだからことの決着も早いと思われる。
私が敢えてこの問題を取り上げ、そして「非難派」の社説を取り上げたのは、あらゆる点から見て閣僚起用を不当とする「非難派」の主張が弱いからである。
それにも関わらず、世論調査の結果が高率であったことをみて、「非難派」の各紙は自らの主張を「世論」或いは「民意」と言って憚らない態度があるように感じ
られ、私はこれに疑問を覚えたのである。
「世論」とは何かと言う問題は難しいかもしれない。しかし、私は国民の多くは自分で考えており、結果としてその意見が世論を形成していると思っている。
マスコミもそれなりに多くの記者を投入し、時間と金を掛けて世論の把握に努めていると理解している。
しかしそうとしても、マスコミには時として世論とは自分のことだと言う態度があるように見える。特に、政治の分野ではその傾向が強い。その理由は
仄聞するところ、記者の多くが「日本の政治はこれでいいのか?」という問題意識をもっているからの様で、そのことに関する限りはマスコミのもつ長所だと思っ
ている。
しかし、政治不信の、、、あるいは政治無関心層が増大していると言われる世にあっては、中には新聞の見出しや中見出しで判断したり、あるいはテレビの映
像で被写体の写り具合をみて判断することがないとはいえない。実際に顔がどうとか、頭の格好がどうとかで意見めいたことを言う人も見掛ける。
そこで、そういう層にも適切に事態を分かりやすく、かつ深く教示する役割も果たして、初めて「世論」がどうであるとかと言えるのではないかと言う気がする。
けれども現実は、社民党やさきがけが連立離脱を示唆して罷免要求をしたことにより、政権母体が脆弱な橋本政権がこの要求を呑もうとしている状況をみて、
「世論の勝利」とか「<社さ>も世論に押されて罷免要求をした。」という点が納得いかないのである。
報道は自民の奢りを言うけれども、自らにも奢りが無いか、点検してもらえばありがたいと思っている。[1997.9.21]
