老若兼用

今日は「敬老の日」。私の旧聞批評としての題材としては丁度いい。何しろ、私も3年後のこの日には現役を引退している身である。
この、「老若兼用」という題は、昨年夏の毎日新聞のコラム「憂楽帳」から拝借した。如何にも「旧聞」であり、自分ではこの題があったことに快哉を唱える。筆者は萩野祥三氏だが、勿論存じ上げた方ではない。

話は、携帯電話が増えたことに始まって、「若者ファッションと言われるものの中に実は実は高齢者に向くものが少なくないことに気づく。」ということになる。
例として「若い女性の小さなリュックは両手があくから杖や階段の手すりを持ちやすい。」とある。
なるほどと思う。 このコラムは、元々具合が悪い母親に合ったファッションの携帯電話がない、というある女性の訴えをヒントとして書き始めたコラムなので、こうした老若兼用のファッションが多い、という運びでは違和感を覚える。が、ま、あんまり角は立てないようにしよう。

私が思うのは、消費財に限らず物の老若兼用は人間社会の本来的な姿であり、むしろ文化の歴史はこの(老若兼用の)上に立って個別性を追ってきたものだということである。老若兼用は物の一次的な機能の上には今でも存在しているが、他の機能を満たす要素はむしろ分化・特化の歴史であったと思う。
コラム氏も女子中・高校生のルーズ・ソックスを例に引き、あの原型はラクダの股引であったろうからルーズソックスもひとつの「温故知新」であったのかもしれないとしているが、正にいう通りであろう。

この様な分化・特化は人間の進歩の現われであって一概に否定すべきことではない。しかしその分化・特化という考えが進みすぎたときは問題である。一次的機能は残存していたとしても、「老」に対する配慮が失われ、その物を選択することが年齢的に異なる世代への差別となって現れかねない。極端な場合は老人ホーム、車椅子専用エレベーター等であろう。 人間社会はもともと老若共存の世界であり、一時的にまた地域的な事情から存在したという姥捨てなどの悲惨なことは論外である。

こういうことを意識の上でも乗り越えるため、老若兼用の物作りをファッションなどの二次的な機能を含めて望みたいものである。[1997.9.15]