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昼の散歩・渋沢栄一像 21
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常盤橋公園のもう一つの見所、渋沢栄一像の方に回る。
道路に面して30メートル、奥行き20メートル位の場所がほぼ二つに分かれて
いて、道路から見て右側、東南方向に円形の花壇に囲まれた噴水がある。しかし
噴水の水を受ける池が大きくあるわけではない。噴水はバスケットボールを一周
り大きくした球形で、それとほぼ同じ直径の高さは1メートル50センチ程度の
円筒の上にのっている。円形の花壇自体は直径5メートル程度であろうか。私が
見たときは噴水は水を吹き上げていなかった。
この花壇の一番東南側に立つと、ちょうど渋沢栄一像の正面になる。だから花
壇付円形噴水を越えて銅像を仰ぎ見るようになる。おそらく花の咲く季節には華
やかな感じを与えるものであろう。
銅像は立派なものである。背景には槐の木と思われる緑の木があるが、像はそ
の前にあり、更に三方が高さ3メートルほどの石壁で囲まれている。花壇の方か
ら歩いていくと低い階段が2、3段あり次いで2メートル弱位の台があってその
上に右手でステッキを突いた渋沢栄一の銅像がやや半身になって東のほうを向い
ている。近くでは分からないが円形の花壇の方から見るとすこし重心を右腕にか
けており、それがいかにも高齢らしい雰囲気を漂わせている。年齢的には70歳
を越えてた時期に思われる。作者銘は確認を怠ってしまった。
渋沢栄一は明治維新の前20年くらいに、今は埼玉県深谷市の近くらしい血洗
島村という所に生まれ、少年期から壮年期まで波瀾に満ちた人生を送り、晩年に
は実業界の大物として社会・公益のために尽くした人物として知られている。
もっとも波瀾に満ちた人生というと、ともすると浮沈が激しかったように思わ
れるが、渋沢栄一の場合は劇的な人生と言うほうが正しいのかもしれない。
城山三郎著「雄気堂々」の小説でよく知られていることを掲げるのもどうかと
いう気もするが、少年期には豪農であった祖父と藍の買い付けに歩いて異才を発
揮したり、青年期には同士を糾合して高崎城乗っ取りや横浜焼き討ちを計画した
り、一転して徳川慶喜に仕えて募兵に才覚を発揮したりし、長じては大蔵次官に
相当する職を努めたりし、その後自ら進んで実業界に身を投じて500以上の事
業創設に関与したりした。
この間徳川慶喜の弟昭武に随行して万博の行われたパリなどヨーロッパに渡っ
て見聞を広めたりしている。
渋沢栄一は「青淵」と号していたようで、最近出版された村山孚編「渋沢栄一
翁経済人を叱る」(日本文芸社刊)によると渋沢青淵記念財団の手により今でも
「青淵」という雑誌を発行して彼の経済道徳合一説の普及を図っているという。
いまこの常盤橋にある銅像も、実はこの渋沢青淵記念財団が管理しているもの
のようであり、さらに常盤橋公園内の城門石垣についても同財団が整備に尽力し
ているようである。
平成4年11月30日のこと

