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昼の散歩・常盤橋の名 20
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「常盤橋」の名前の由来は面白い。
必ずしも銅板の説明ボードでは十分ではなく、常盤橋という、地名ではなく橋
自体の近くにある高札式の説明板も読まなくてはいけないが、この橋が作られた
徳川家光の時代に、町年寄 奈良屋市右衛門が橋の名前を考えるよう命じられた
という。もっとも「誰に」命じられたかは書いていなかったように思う。
しかし、奈良屋市右衛門には名案がなく、丁度彼の家に居候していた名も言わ
ぬ浪人に頼んだところ(即座にかどうかということは書いていないが)、
「色かえぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤なみ」
という金葉集・太夫典侍の歌に因んで常盤橋という名を提案したという。
銅板には明治の何時の頃か分からない写真が付いているが、それには藤が、橋
に覆いかぶさるような風で写っているから、奈良屋市右衛門がいた頃でも藤が多
かったに違いない。そして橋のたもとの高札には「歌の心を松平の姓にかけため
でたい歌」であると述べている。
しかし・・・と詮索好きな私は考えるのであるが、ここには常盤橋門という城
門があって、この門は橋との建設の前後は別にしても時代を余り隔てていない時
期に、奥州方面への備えとされていたのである。門の呼び名が、橋の命名の後に
定められたとしても、門や橋の戦略上の重要性は大きなものがあった筈である。
そのような重要な場所の橋の命名を町役人とはいえ武士でもないものに何故委ね
たのか、という疑問が生じた。
ただ、「しかし・・・」といったものの、直ぐに答えも浮かぶ。前に出た銭瓶
橋の話も大事なものがあると思ったからだ。銭瓶橋も常盤橋の近くにあった筈で
あるが、これの命名には権力者が関与した兆しがみえない。橋の由来に3説もあ
るということがそもそも権力者関与の想像を排除するし、銭瓶、銭買、銭替の話
の成り立ちからして権威主義的なものがない。したがって城近くの橋の命名など
幕府にはどうでもよかったから任せたのだろうということである。
歩きながらの疑問と答えでは少し心もとない。せめてもう少し考えてみよう、
世の中、何にでも裏がありはしないかと。仮にあれば何が考えられるか?
そこでボードに掲げられたことは事実であるとして出発すると、それには権力
者あるいは為政者の思惑があったのではないかと考えることができそうである。
山岡壮八氏の小説では、この時代の最高権力者の個々の指図には、必ず囲碁の
ような読みがあることになっているのも支えだ。
さてそうすると・・・当時、徳川家光の時代は徳川幕府最盛期であり、天一坊
事件とか島原の乱はあったが、奥州伊達藩が忠誠を尽くしている当時は概ね平穏
な時期であったと考えられる。そうすると、幕府としてはそろそろ文治に目が向
き、その一つとして町民参加による江戸の興隆に意を用いていたのではないかと
いう気がする。その結果が町年寄りに巡ってきたということが考えられるのでは
なかろうか。その結論なら山岡的思考にフィットするので、なんとなく自己満足
に浸れるのであるが、果して???
平成4年11月30日のこと

