立像




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昼の散歩・立像                                                        4
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      私の昼休み高速散歩は、今や一歩も進まなくなった。  一体、あの像はどなた
    のものか。この関心が歩行を止めさせてしまった。
    
      私は今から30数年前、この近くに、それこそ竹橋の近くに住んでいたから、
    当時もこのあたりは散歩道であった。また早朝ランニングでこのあたりを走った
    記憶もある。それなのに見当もつかないとは、当時はあったのか、記憶が失われ
    ていたのか。その頃は毎日新聞社の入っているパレスサイドビルが完成してすぐ
    の頃かと思うが、入口近くのあの特徴ある円筒形の建物があったのかどうなのか
    記憶が定かでないのだから、どうも記憶が失われていたのかもしれない。
    
      昼休みマラソンまたはジョギングの若者3人は休息を終えたとみえて、立像を
    横手に見上げながら、また明るい秋の陽のさす道路の方に走り去っていった。
    
      私は、地面一杯に敷き詰められた公孫樹の葉を踏みながら石標に近寄った。
    私の背より少し高い180センチメートル位、横60センチメートル位の縦長の
    石標で、上方30センチメートル位の横書きのスペースに、昔風に右側から四文
    字で「國體擁護」と書いてあるようだ。「あるようだ」とは、恥ずかしながら草
    書体(というのかどうかも知らないが)の達筆で「國體」と書かれた部分は読め
    るが、「護」はかすかにそのようにみてとれる程度であり、「擁」は全く読めな
    いのでそのように推量しただけである。そしてその四文字の左側に縦書きで「元
    帥  載仁親王  昭和15年2月」と彫字がされていた。
    
      しかし、立像の名前らしきものはまだ出てこない。石版の本文は、縦書きで、
    これまた流麗な(というのであろう)筆で書かれているが、辛うじて「和氣清麿
    呂」という名が読み取れた。なるほど「國體擁護」の文字があるはずで、かの孝
    謙天皇当時の法王・弓削道鏡の皇位継承の野望の企てを阻止した人物として記憶
    に蘇った。確かその後、道鏡の怒りをかって一時地方に流されたが、道鏡失脚後
    召還されて平安遷都に尽力した筈であった。石版では「贈正一位」とあった。
      そうすると、像が日比谷公園の方角を向いているのは、つまりは西方、はるか
    奈良や京都を望んでいるのであろうか。道鏡は、天皇の崩御後下野国に流された
    筈であるが、それならば丸紅商事など神田方面を向いていないのは、もはや国体
    安全と考えたからであろうか。                                        
                                            平成4年11月25日( 水) のこと




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